目次
1現代風俗帳
- 1-1
- 皇居前広場
- 1-2
- ストリップ・ショウ
- 1-3
- 競輪
2私の東京
- 2-1
- マドモアゼル五月
- 2-2
- 三十間堀
- 2-3
- 不忍池
- 2-4
- 夜間野球
- 2-5
- 両国界隈
- 2-6
- うつしゑ
- 2-7
- 名人会
- 2-8
- 酉のまち・歳の市
- 2-9
- クリスマス
- 2-10
- 忘れられた側面
- 2-11
- 浅草新景
3?東襍記
- 3-1
- ?東新景
- 3-2
- ?東餘話
- 3-3
- 玉の井の窓
- 3-4
- その頃
4美人變遷史
- 4-0
- 美人變遷史
5ハイカラ考
- 5-1
- ハイカラといふこと
- 5-2
- モダンということ
- 5-3
- 猿真似
- 5-4
- アロハしやつ
6幕間
- 6-1
- 役者の顔
- 6-2
- 幸四郎丈逝く
- 6-3
- 六代目追憶
- 6-4
- 菊五郎の芝居に装置をした時
- 6-5
- 菊五郎・三津五郎・嘉美
- 6-6
- 牡丹燈籠
- 6-7
- 近ごろの舞台装置
- 6-8
- 歌舞伎改名談義
7貴塵館記
- 7-1
- 星移る
- 7-2
- 葉越しの月
- 7-3
- 風
- 7-4
- 秋來
- 7-5
- 秋祭り
- 7-6
- 逆
- 7-7
- 私の温泉
- 7-8
- 塾
- 7-9
- 猫の死
- 7-10
- ソップ
- 7-11
- ラマ佛
- 7-12
- 白足袋
- 7-13
- 顔
- 7-14
- 髷
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現代風俗帳
皇居前広場
戦後いろいろの新語とそれに添ふ生活とが出て来たけれども、「アプレ・ゲール」をはじめとして¬パンパン」であるとか「ストリップ」であるとか、「競輪」といふ言葉もこの熟語体は初めてならば、「発走」といふ言葉も耳新らしい。「皇居前廣場」といふ名詞が一頃の「ボク(さんずいに墨)東」といふと同じやうな一種の隠語にならうとは、思ひ測るべからざる世態になつたものだ。
読者諸君、先づ僕の不束なこの本を一顧して下さる御厚情に対して深く御礼申さなければなりません。一体この本を『現代風俗帖』と題したのは、発行書肆東降書房のM君の示唆―示唆と云ふよりも命名―に依るものでしたが、『現代風俗帖』ともあれば、その本格はなかなか書けるものではありません。しかし多少ともそれに平素心は寄せてゐるところから、僕はこの題名をこの本に肯つたのであります。もしこの本がこの名にそぐはなければ―羊頭狗肉ならば―命名者のM君がわるいのではない、どこまでも筆者私の不敏です。
八月十八日(昭和二十六年)のことでしたがM君は僕を誘つて、格別その日の見聞を僕に「かゝせる]といふ方寸は同君になかつたのだが、云ふところの「現代風俗」をひとわたり見て歩かないか、といふことでした。言下にOKといふわけで―勿論このコトバのやりとりもその後の新語・新風俗です―ニ人は連れ立つて午後早くから夜の深くなる時間まで、後楽園の競輪、新宿のストリップ・ショウ(セントラル)、それから又都心へ長駆して皇居前廣場、日比谷公園、と、これだけ見て歩きました。
僕はそれまでつい「競輪」を見たことが無い。ストリップは抑々その最初の頃を見てゐて、その後実は「興味」を失つてゐるので久しく見ないのでしたが、「皇居前廣場」も話には聞いてゐながらつい「実見」したことはありませんでした。それでM君の申し出を良い機会とばかり、早速行つて見たわけです。
思へば昔のことでもあり、又、今これを云ひ出して、愚を新たに御披露するのはバカなことですけれども、一個の「私」木村某のこととはせず、当時の「一少年」のことがらとして、御聞き下さい。明治天皇が御不例の時でしたから、そろそろ四十年前の夏のことです。私は廿歳そこそこの、京橋采女町に住んで、その時ひどく足の水虫をやつてゐたものでした。両足共夜目にも白くボテボテの繃帯をしてゐました。私はまだ「絵かき」ではなく、部屋住みの、絵画文学好きの、半ば、不良のやうなものでした。
―その当時はこの「不良」といふ言葉が今の「与太公」アンチャン、と云つた工合に使はれてゐて、中学生などに専らそれが有りましたし、却つて町の盛り場には少なかつたかもしれないが、極く少数、女学生間にも不良が、あつたものです。警視庁には当時不良少年係といふものもあつた筈で、私の中学友達だつた―学生時分に充分「不良」の前科夥しかつた―I君は、卒業後転向して、転ずるや警視庁も腕つこきの「不良」係りり刑事となつたものでした。
うるさいがこの「転向」といふ言葉も、本当はその頃ほひにはこの熟語になつてゐません。これは「左翼」の盛んにつれて新発生した、そこによく世相を表した、一つの昭和初年度の特殊な新造語です。
私は「不良」じみてゐた、とは云つても、御定法通りに不良だつたわけではない。決して善良ではないといふ対照の意味での「不良」で、不良には元来硬派と軟派とありましたが、少くとも私は硬派ではなかつた。しかし軟派と云へるものでもない。只どつちかといふと硬いよりは軟かかつたといふ程度でせう。
夜更けて皇居前廣場―その頃はこれもかうは云はずに「二重橋」とあつさり云ひましたが、そこから帰つて来ると、そこ一帯の砂利の上の、数千の人の、陛下の御不例を嘆きまつる光景は息づまるばかり、忠誠溢るゝものでした。そのことはこゝに略します。相当夜更けて内濠から外濠へと、それから道をはすに切れて鍛冶町から北紺屋町、大根河岸へかけて、シーンとあたりのねしづまつた町家筋の中を歩いて来ると―両側ともそのねしづまつた、概ね塗家造りの、屋の棟のがつしりしたその辺の「明治の町」といふものは、さすがに井上安治の東京版画はよく写してある、今思ふだに懐しい、一つの貫禄でした―始終私の前を小走りに行く下駄の音がありました。それは若い女で、廂髪の人でした。年は矢張り私ぐらひでせう。その人がカラカラカラカラ下駄を鳴らして私の先を行く。同じく二重橋のところから家路へと帰るものでせう。いつか私はその人と、紺屋橋を渡つて鎗屋町辺のねしづまつた通りで、往来に前後二人切りとなつてしまひました。
私の不良―明治時代の若ゾーの不良は、まあこんな程度、といふところなんてすが、その時私ばわれ知らずその廂髪の人に近付いて
「モシモシ」
と声をかけたものです。
「モシモシ、あの―あなたは若しや、最上澄子さんではありませんか」
と私は云ひました。
この「最上澄子」といふ名は、その突差ロをついて云ひ出したデタラメで、と云ふのが、私はその頃よく「萬朝報」に短篇の懸賞小説が募集されてゐました。それヘヘンなものを書いて出すシゴトを―当人としては相当真面目に―やつてゐたものですから、そのショーセツの主人公の一人に、かねて「最上澄子」といふ架空の名を与へてゐたことがある。その「名」を特出したわけ……私としては自然です。
突然私に呼びかけられてその女の人は、恐らく驚いたことだつたらうと思ひます。
「イイエ」
と云ふなり、カラカラカラカラカラカラ駈けて、どんどん先きへ行つて了ひました。
私はと云ふと、女の人が駈け出すと、こつちは却つて歩調を落して、ゆつくりゆっくりと、今見も知らぬ人を呼びとめてみたその「不良」の味を反芻しながら、とでも云ひますか、極くゆつくり歩いて、やがて采女町の家(歌舞伎座の前)へと帰りました。
―私の昔の「皇居前廣場」はそんなものでした。
この八月十八日に行つて見た皇居前廣場は、折からとつぷりと日のくれた、たしか土曜日だつたと思ひますが、こゝに「繰り込む」といふ言葉はおかしいけれども、使へば、続々と八方開けつぱなしの「口」から殆ど例外なく二人連れの繰り込む、M君の云つたその、「ラッシュ・アワー」で、更に君の云つた言葉を重ねれば、そこはその時「アベック市場」といふべき光景でした。
私はその特のそこの光景を細かく述べ立てる興味を持ちません。とにかく、盛んなものでした。―古いときわ津の文句に「草の根枕にうんと云ひねエ」といふのがありますが、当時これは江戸では相当乱暴な表現だつたでせう。しかしまさかそれを都心の……
ときわ津浄瑠璃の「草の根まくら」の頃からは、概算百年近く経つてゐると思ひますが、私的不良の夏の夜の頃から囚十年経つてゐます。そして今敗戦後現出した開衿シャツとワンピースのアベック市場です。多く何をか云はんや。
そこに集つた人々は、「恋情」といふか、ずばりと「色情」と云はうか、それ一本槍の、何れもこれに陶酔したもののやうでした。他に何の思ひ患ふところもない。アムールに酔つてゐる人々です。アムールの他には思ふに「金」も「世間」も何もない陶酔した人達があつちにもこつちにも一杯ゐる光景といふものは、何か圧倒的な、又威圧的な、一種の迫力のあるものでした。私とM君とはこれも「二人連れ」に相違ないものの、ニンゲン的に云つて全然イミの無い、そこを歩く資格は無いもののやうに「ひけ目」を感じたことでした。アベックの人々は皆まじめです。それを漫然と「見物」して歩くわれわれは「不真面目」の感を蔽へませんでした。われわれはここを立去つて、濠端を、改めて日比谷公園へとはいつてみました。
と、こゝで花壇のベンチで見たものは、M君曰く「こゝは皇居前廣場の大学校へはいる前の中学校ですね」と。更に曰く「面白いじやありませんか。こゝのアベックには詩かありますね。夢もあるしレンアイも有るやうに見えるが―あつちには夢も詩もへつたくれもありませんね。卒直大胆で、クソ真面目だ。そこにニンゲンが露呈してゐるやうに見える。イヤ、実際、日比谷のベンチのアベックの方が、不マジメかも知れませんよ」と。
僕は同じ夏の夜のことでもあつたし、「場所」も昔と今も同じ界隈でしたから、「最上澄子」の件を考へてゐましたが、四十年前の不良は、甘つちよろい、へなへななものだと、われながら思ひました。
現代青年の恋愛に至つてはずつと敢闘的な、又、大胆卒直、簡明な、よく云へば晴れ晴れとしたもの、わるく云へばぬけぬけとしたものと思ひます。
―その実感は私にはわかるまいと思ひます。