目次
1現代風俗帳
- 1-1
- 皇居前広場
- 1-2
- ストリップ・ショウ
- 1-3
- 競輪
2私の東京
- 2-1
- マドモアゼル五月
- 2-2
- 三十間堀
- 2-3
- 不忍池
- 2-4
- 夜間野球
- 2-5
- 両国界隈
- 2-6
- うつしゑ
- 2-7
- 名人会
- 2-8
- 酉のまち・歳の市
- 2-9
- クリスマス
- 2-10
- 忘れられた側面
- 2-11
- 浅草新景
3?東襍記
- 3-1
- ?東新景
- 3-2
- ?東餘話
- 3-3
- 玉の井の窓
- 3-4
- その頃
4美人變遷史
- 4-0
- 美人變遷史
5ハイカラ考
- 5-1
- ハイカラといふこと
- 5-2
- モダンということ
- 5-3
- 猿真似
- 5-4
- アロハしやつ
6幕間
- 6-1
- 役者の顔
- 6-2
- 幸四郎丈逝く
- 6-3
- 六代目追憶
- 6-4
- 菊五郎の芝居に装置をした時
- 6-5
- 菊五郎・三津五郎・嘉美
- 6-6
- 牡丹燈籠
- 6-7
- 近ごろの舞台装置
- 6-8
- 歌舞伎改名談義
7貴塵館記
- 7-1
- 星移る
- 7-2
- 葉越しの月
- 7-3
- 風
- 7-4
- 秋來
- 7-5
- 秋祭り
- 7-6
- 逆
- 7-7
- 私の温泉
- 7-8
- 塾
- 7-9
- 猫の死
- 7-10
- ソップ
- 7-11
- ラマ佛
- 7-12
- 白足袋
- 7-13
- 顔
- 7-14
- 髷
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濹東襍記
玉の井の窓
小説濹東綺譚の挿絵は本文の叙説に従ふところから大多数殆んど材料の土地の出来るだけ如実な実地写生に基いて作りましたので、その後「材料の土地」が文字通り一木一草もその上の影を留めずに壊滅して了つた今となると、さながらに「文献」となつてしまひました。あすこ(向島寺島町一帯)を焼き払つた戦火は何日のことか、詳しい日附はつい聞き洩しましたが。これはいついつまでもあの土地の人に聞けば、何年何月何日といふことは、何時何分迄も忘られずにいて、すぐわかることでせう。爆弾や焼夷弾よりも第一「風」にやられたとのことで、この大幅に西からやつて来る猛烈な熱風の為に江東一帯は見る見る火の海となり、あの辺の人は却つて死傷も比較的少なく只東へ東へと逃げる一手だつたさうです。風下を遠く砂町、浦安の方まで逃げたといふ。殆んど石造家屋と云つて数へる程しかないツケギ細工のやうだつたあの辺の町家は一たまりもありません。一物も余さず焼野原とされました。―東へと逃れた人々は、やがて時経つと、ボツボツ又元の方角へと引返しましたが、あゝいふしやうばいがらとして「玉の井」へと引返すよりも新規に一劃を建てたのが、当時として云へば焼野原も多少人里近い、土堤下(どごした)の「鳩の町」だつたと云ひます。
それから改めて古巣の玉の井へと二段構へにしやうばい変へしたものが少なくなかつたとのこと。玉の井の焼跡は、はじめは、行つて見ると、火の中でも焼けなかつた大々と打渡る幅の広い舗装道路が邪険にまつすぐ白つちやけて地面に目に付くだけで、全く、昔よく云つた、狐につまゝれさうなガランとした、何にも目を遮るものの無い空地で、ガサガサでした。
私が戦災後改めてあの辺へ行つて見たのは昭和廿二年十月末のことでしたが、まだ「復興」のはか行かず、新しく文字通り「川岸を変へた」向島を南寄りの「鳩の町」はそろそろ賑はつてゐましたが、「玉の井」にはまだやつと七十五軒しか立戻らないとのことでした。しかしさういふそばから鑿や鉋の音はすでにその辺に盛んで、又改めて昭和廿三年四月に見に行つた頃は、もうその後の「新店」は何百軒といふ数でしたらうし、あたりの風景さへ、つい半歳前の右も左も焼木杭にごろた石、ぬかるみ、雑草……の一面だつた跡はもう綺麗に建前の済んだ小態な長家だての「町」の面目に変つて、真新らしい鉋屑がそこらぢう一杯に散つて光つてゐました。剰さへ日一日と当時「復興」の勢ひは燃える野火のやうに拡がるばかりだつたことと思ひます。
私がその時見て面白いと思つたのは、その「再新玉の井」の娼家のそれぞれに、すでにして新規な風(モード)の成立つてゐたことでした。主としてそれは家の表見付きの入口から窓、それから家の中へと一歩はいつたところのタタキになつた一劃の構造で、昔の娼家になぞらへて云へば「格手先き」から「引付け」へかけての「しやうばい上」の構造が、がらりと変つたことです。格手先きなどといふ古い比較を持出す迄もありません。つい戦災以前、アヴァン・ゲールの、小説濹東綺譚に語られた頃がさうだつたこの土地柄の家々の特徴成した小窓。そこに女がゐてこの稼業渡世の重要な「職場」となつてゐた「目ばかり窓」の作りです。この風がもはや全然そこには見かけられないのです―見かけられない、といふよりも、「禁止」となり、わざと古風に云へば、御はつととなつてゐたのです、占領統治下のアプレ・ゲール日本では。
それも戦後初めて二十二年の秋に見に行つた頃の話では―「話」といふのは土地の組合の事務所で聞いたことです―はじめは此の区域への進駐軍のオフ・リミットを見込まず、却つてそこを逆にとつて娼家構造のつまり「先買」でかゝつた為めに、用室は凡てベッドの仕組みとする、のみならず、非常に善尽した「衛生室」の設備を添へて、と云ふのが、イヤなわかり良い言葉で云へば「洗滌室」です。特にその特別構造を家の中に大きく贅沢に取つたとのこと。「オフ・リミットになつて見ると、日本人の客はそいつをさうも使ひませんから、それはムダでした」と、背広服の組合常務の人がボヤいて話しました。―そして「復興」の手がゝりには、家の表見付きの構造も昔ながらの、「目ばかり窓」の寸法から先づ運んだことだつたと思はれます。突として「地域」全体がおもわくに反して占領軍のオフ・リミットとなると共に、MPから制令が下つて、(MPは日を決めて見廻りがあるといふことでした)女の身分令がいはゆる「籠の鳥」でなくなる明るい建て前を基本に、生活の日常も昔の風を改めて、彼女達を「目ばかり窓」の暗い中に封じ込むことは許されなくなつた。それは変更しなければならなくなつた。
往来の外から見て一目で屋内の「職場」を、その起居動作全体、はつきり見徹せるやうに、といふフレがあつたさうです。それでこのなりはひには明治の「十二階下」以来定法となつて来てゐた(そしてこの定法なるものは、矢張り上からの命令、警察令に基くもので、昔の「日本」のやり方は、逆に、同じところを特に暗く封じこめはしても、明るく、解放することは却つて許さなかつたものです)そのために出来た「目ばかり窓」の構造。―及びその歴史。これはたちどころに消滅すると共に、新規に真明るいガラス戸の新案で、首をひねることになりました。
この新規格の工夫はその後時経つにつれて一つにはそれがこの「商法上」から云つて家屋の表装飾の随一ともなる上から、昔の遊廓の「張見世」格子先きが構造の贅を尽したと回じく、いろいろの思案を凝らすこととなり、それが追々と土地々々につれて変るといふあんばいの、一方に玉の井風の窓の上下廻転があれば、別に亀井戸の竪廻転が現れると云つたやうな、又面白いこととなりました。
それが現在の状態です。
そして「濹東綺譚」のモードは、すつかり、何も彼も今は早くもむかしがたりとなりました。